池田眞徳神社の参道
執筆のきっかけ

 岐阜県多治見市に「池田眞徳神社」という稲荷神社をインターネットのホームページ検索で偶然に見つけた。(左の写真)
私の名前と同姓同名?であることに驚く。
これが「池田神社」のように姓だけの同名であればさほど驚きはしないだろうし、また、たとえ「眞徳神社」のように名前だけが同一の神社であったのなら、「仕事かなにかで名古屋へ行った時、ついでに訪問してこよう」と、まあその程度で軽く考えていたに違いない。
しかしながら、「池田眞徳」というように苗字も名前も同じであり、しかも「眞」の字が「真」ではなく「眞」というとこまで同一である。
これは何が何でも行かねばなるまい。
このことを大阪に住む両親に話したら、やはり驚きの声をあげ、早速、私の妹を伴って4人で多治見市に向かった。
平成17年9月のことである。

 私が妻と二人で暮らす東京の狭いマンションに戻り、「テレビでも視ようか」と畳の上に腰を下ろしたその時、目の前の本棚に並べてあった父の手記が不思議と目に止まった。
これまでに、もう何度も読み返してきた手記ではあるが、「今一度読んでみるか」と1ページの半分まで進んだところで、ふと立ち上がり、パソコンの電源をONにする。
そしてWORDを立ち上げ、父の手記に沿って自分なりの文章をつくりはじめ、気がついたら小説文を作りはじめていた。
 「ヒロシマの九日間」は、このようなきっかけで作り始めたのであって、決して「書こう」と意気込んで書いたのではない。
俗に云う「何の気なしに」とは正にこういうことに違いなく、動機などという大それたものはなかったような気がする。

 小説を書き終えてから父に聞いたことだが、父が手記を書き出したきっかけは、自宅近くの阿弥陀山松尾寺に参拝し、その本堂裏でうたた寝をしていた時に被爆者の夢を見たことであったらしい。
(このことは、小説の「プロローグ」にも記載してある)
私自身は特に「信心深い」人間ではないが、このような摩訶不思議な偶然が重なると、「天のお告げ」とまでは言えないが、それに近い何かの力が働いたような気がしてならないのである。
 


池田眞徳神社


泉州 松尾寺

松尾寺の本堂裏階段


江田島


現在の宇品西2丁目


被爆図
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元安川
父の手記

 私の父、池田義三(いけだ・よしぞう)は、昭和2年2月生まれの81歳で、昭和20年8月6日午前8時15分、広島市宇品西2丁目(爆心地から3Km地点)で被爆した。
当時の父は、陸軍船舶兵特別幹部候補生として江田島に配属されていたが、同月6日早朝に軍需物資調達の命令を受け、上陸用舟艇で宇品西二丁目に上陸し、広島市内に向かうトラックを待つため、重油が満載されたドラム缶を背にして座っていたところで被爆したものである。
運よく、このドラム缶が遮蔽となり、原爆の閃光を直接受けることなく一命を取りとめたが、爆風で数メートル吹き飛ばされ、しばらくは気を失っっていた。

 その後、軍の命令を遂行するため、トラックで広島市内に向かったが、500Mほど走行したところで広島市内から避難してくる被爆者群に遭遇し、それ以上の前進ができず、やむなく重症の被爆者をトラックに乗せ、宇品港へ引き返した。
 宇品港で被爆者を降ろし、同日午後1時頃に江田島へ帰営したのだが、再び広島市内の消火作業にあたる軍命令を受け、とんぼ返りの状況で広島市内に向かう。

 父が広島と江田島を往復している間に、広島市内では「黒い雨」が降り、高濃度の放射能を浴びることがなかったわけで、前記したドラム缶といい、また往復の幸運といい、これらの偶然の連続が父の命を救ったのである。

 同日午後6時頃、宇品港に再上陸し、そのまま徒歩で広島市内に向かい、翌7日早朝まで消火作業を務めた。
ほぼ鎮火した後、さらに軍から命令が下り、原爆ドームに程近い大手町や紙屋町、八丁堀を中心とした爆心地周辺で同月14日までの九日間、数えきれないくらいの遺体処理に従事することになる。
何千、何万もの遺体を自力で集め、ガソリンをかけて野焼きするなどという作業はあまりにも酷いものであり、それこそ軍命令でなければできないことであった。

 被爆の瞬間の様子、助けを求める被爆者の惨状、子供を探す母親、死体の集積、死体の焼却、そして八月という真夏の惨事であるゆえに、死体がすぐに腐敗し、大量の蛆虫が湧き出てくる有様、そして何よりも酷いのは、負傷した被爆者の生きた身体から無数の蛆虫が湧き出てくることである。

 
 被爆から60年もの歳月が経過しているが、幸いにも文章家の父であったがために、過去に父が記載した原爆体験の手記があり、この手記と、父の体験談をもとに執筆したのが本作「ヒロシマの九日間」である。
この「ヒロシマの九日間」は、原子爆弾の爆発、広島市街での消火作業、爆心地周辺での遺体焼却作業等、原爆の被害状況および爆発後の爆心地付近の様子などに加え、爆発後から九日間にわたり遺体処理作業に従事した若き兵隊と被爆者間での人間模様を表している。
原爆に関する手記や小説は、過去において相当数が刊行されてはいるが、本作のように原爆の爆発から爆心地周辺での死体処理を中心に描いたものは数少ないと思われる。
また本作は、単に原爆の被害状況を描写するだけでなく、若き兵隊と被爆者間のエピソードを挿入し、現代人に読みやすいものとなるよう努めたつもりである。


爆心直下の島病院


父の手記
本作への想い

 原爆が広島に投下されたのが昭和20年8月6日、終戦は同じ月の8月15日なので、今日までもう60年以上もの歳月が経過している。原爆を実際に体験した私の父も既に80歳を超える年齢となっているので、今の日本では戦争や原爆の体験者は極僅かな人数になっていることであろう。。
父も手記のなかで述べているのだが、原爆の現実の惨状は写真や映像では絶対に表せるものではない。
事実、私自身も小説のなかで、焼け爛れた被爆者や破壊された市街などの悲惨なシーンを書くとき、どうやってその状況を表現するのか、本当に悩んだものであった。細かく描写をすればするほど、現実から遠のいてしまうような気がしてならなかった。
だから、何回も書き直して最終的に得た結論は、極力細かい描写を控え、端的に状況を表して、読んでる方々の想像に委ねることが最善である、というもので、実際の小説でもそんな文章を書いたつもりである。

 このような経緯と想いで書いた小説なのだが、これまで読んでいただいた方々からの感想をお聞きすれば、まずは何とか私の想いが伝わっているような感じがする。

 是非、一人でも多くの方に読んでいただきたと願うばかりである。









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