中野区立桃園第二小学校
6年 TM


 私は「日本に原爆を落とされた」ということしか知りませんでした。被爆者のことなど考えもしませんでした。でも、池田先生の話を聞いて「原爆を落とされた」だけでなく被爆者の気持ち、被爆者の遺族の気持ち、助けてもらえなかった人の気持ちをきちんと考えたいと思いました。地球で共に住んでいる人たちが仲間割れなんて、そんなこと絶対にいけないと思いました。私はこうした事実を知り、その過去は生かして私ができることを一つ一つやっていきたいと思いました。

中野区立桃園第二小学校
6年 OT

 ヒロシマについての話を聞いたときには、とても大きな衝撃を受け、原爆の恐ろしさを痛感しました。日本は唯一世界で原爆の洗礼を受けた国です。原爆がどれほどの威力をもち、また、どれだけの人々を恐怖の底に落とし入れたのかを伝えるのは日本しかできません。池田先生の話を聞いた後には、恐怖と共に、このことを後世に伝えなければならないという気持ちが込み上げてきました。

中野区立桃園第二小学校
6年 

 私は池田先生にしていただいた話を絶対に忘れません。なぜなら、たった一つの爆弾で信じられないほどの人間が命を落としてしまったからです。私は、この話をこれから生まれてくる人に教えたいと思いました。

中野区立桃園第二小学校
6年 OH

 原爆の恐ろしさは前からも知っていましたが、「人が人ではないような」や「目がない人」などの言葉でもっと原爆が恐ろしくなりました。もし、私たちの国、日本にもう一度原爆が落とされたらということを考えるとこわくなってしまいます。だから私は自分にできる最大限のことをしたいと思います。

中野区立桃園第二小学校
6年 YR

 僕は池田先生の話を聞いて一番悲しかったのは、助けられないけど生きている人達を見捨てなければならなかったことです。まだ生きていて「助けて、助けて」と言っているのに、何もできないことに心が痛みました。このようなことが二度とないように、僕たちでもできることを、最善の努力をつくしてやっていきたいと思いました。例えば、外国との友好関係を良くして、戦争がないようにしたいです。

中野区立桃園第二小学校
6年 KK

 私は戦争の話を聞いて一番心に残っているのは、人々を見捨てなければならない人達がいたことでした。とても悲しかったです。私は戦争で命を失った子どもたちの分も、たくさん遊び、たくさん勉強しようと思いました。

中野区立桃園第二小学校
6年 みやした

 原爆の中心部が太陽よりも熱いなんてびっくりしました。だから、65年が経った今でも、原爆ドームなどを残し、後世の人に二度とこのようなことがあってはならないと訴えているのですね。

中野区立桃園第二小学校
6年 黒川

 戦争、そして原爆というものが恐ろしいことは知っていましたが、話を聞いて、こわいなんていうもんじゃない、それはどんな言葉を使っても表しきれないものだと言うことを感じました。人間が人間でなくなる。爆心地に虫がいなくなる。以前、平和記念館で見た人間の姿を、今でも僕は忘れてはいません。しかし、あれが「きれいすぎる」との言葉が漏れるほど、現実は残酷だったように感じました。
 原爆を落とされたのは日本だけ。日本の戦争は終わったけれど、まだ戦争をしている他の国へ少しでも伝わっていけばいいと思います。僕も下の世代へ伝えていきます。

中野区立桃園第二小学校
6年 勝田美月

 私は、お話を聞いて,やっぱりこわいと思いました。一番こわいと思ったのは、1人の人がつぼみたいなところに入っていて、見つけた人が引っ張り出そうとしたら、そのつぼの中に入っていた人の皮膚が,全部はがれたことです。想像したら、ものすごくこわくて、鳥肌が立ちました。

中野区立桃園第二小学校
6年 M.N

 今までにもいろいろな原爆関係の本を読んだことがありますが、池田先生のように、原爆二世も被害を受けている?骨が弱くなり骨折しやすい、歯がもろいなど、普段の生活に支障をきたす?とは思ってもいませんでした。なので、このような悲しいことは二度とやってはいけないと思いました。

講演先小学校

教師

先日の本校での講演誠にありがとうございました。
子どもたちにとっても忘れられない内容だったようで、しばらく後でも時々話題に上がっていました。
私自身にとっても前任校に引き続いて二回目の講演でしたが、何度聞いてもその内容は衝撃的なものであり、忘れられないものでした。
私たちを含め、戦争を知らない人間が増えている今の世の中、このような話はとても貴重なものであるとともに、この話、体験を伝えていくこと、そして二度と戦争をしてはいけないという強い思いを感じました。
ぜひ来年も本校での講演をお願いします。

教 師

講演を聞いて
 
自分が知っていること、考えていたことより現実はひどく、すさまじいものだったと思いました。同時に、自分の考えの甘さというか、平和ボケしてしまっているというか、戦争、原爆に対する考えが低く、教師という立場で平和の大切さを教えていかなければならないと思うのに、避けてしまっていたなあ、と思いました。
平和についてきちんと考えてみよう、というきっかけを下さった池田さんの活動はとても素晴らしいものだと思いました。

教 師

講演を聞いて

 高校時代、原爆資料館を訪れ、それまでの楽しいだけの修学旅行も一転、資料から知った惨状によって真剣に平和について考えさせられたことを思い出した。
肌が垂れ下がった人の模型も当然見て、目をおおうのも忘れて口を開けたままじっと見続けてしまったが、池田さんのお父様の「きれいすぎる」という言葉を今日聞き、原爆のすさまじさ、予想もできない被害を再考せねばならないと感じた。
ただ自分たちにできることは、事実を伝え、平和を願う気持ちを忘れさせないことだと感じた。

教 師

講演を聞いて

 原爆資料館を訪れたり、文献書籍を読み進めたりしたことはあったが、今回のようにお話をうかがう経験は初めてでした。
お話に引き込まれ、子供たちのためいというより、自分自身のためにとても良い経験になりました。
戦争のこと、原爆のこと、過去のこと、そして今の世界のこと、いろいろなことが頭によぎりました。
ただ知識を得て、それを伝えることが平和教育ではないと感じました。
今回のようにお話をうかがい、自分の中で繰り返し考えて、色々な方法で子供たちに伝えていきたいと思います。

 
教 師

講演を聞いて

 映像や写真より言葉で伝える方が残る、というのが印象に残りました。
「むごい」「怖い」だけでなく、「だから戦争をしてはいけないんだ。」「人の命の温かさは素晴らしい」ということを感じました。
戦争だけでなく、殺人事件も多い世の中です。
戦争の話を通して、「生きていること」「命の大切さ」を感じ取ってほしいです。

教 師

講演を聞いて

 私自身、小学生のころ、被爆者の話を毎年聞いていたのだが、大人になってこのように詳しく聞いたのは初めてだったので新鮮だった。
淡々と話されることによって、今まで聞いた話を思い出すことができた。
この講演を聞いて、やはり戦争を知ることは大切だと感じた。
私はXX県出身ですが、こちらの地域ではほとんど平和教育らしきものが行なわれていない、不十分だと感じる。
(友人の話などを聞いても)だからこそ、きちんと過去の戦争の現実を子供たちに知らせ、子供たち自身に平和について考えさせなければならないと強く思った。また、伝えるための手立て(コツ)を知ることもできてよかった。

OH小学校
6年生担任
U.Y.先生

 2学期が始まり、子供達は自分の調べた内容からグループを作りました。
その中から自分の言葉を出して集めてひとつの詩になりました。
これは「ふれあい集会」という学校の行事(お年寄りとのふれあい)で発表します。池田さんのお話しをうかがったことがきっかけになってできあがったので、ぜひお知らせしたいと思いました。
この詩は群読の形式をとり、6年生全員で発表します。
素晴らしいきっかけを与えていただき、ありがとうございました。

  詩を読む

講演を行なった小学校
児童の皆さんの作文集

  講演をおこなった小学校の児童が書いた作文集です。
 ご覧ください。

K.T.さん

宮城県多賀城市

男性

61歳

貴方の活動に敬意を表します。私の父親も江田島の海軍兵学校の教員(砲術)として居ました。原爆投下直後の7日か8日に救援・救護ということで、授業のない教員は救援にヒロシマに入ったと言ってます。しかし学生は行かせなかったとのことです。したがって、ヒロシマの惨状は子供のころから聞いております。6年前、父親の戦争の聞き取りをはじめたとき、被爆直後にヒロシマの爆心地周辺に行った事も話していました。
 それで、08年に被爆者手帳の申請をしましたが、その後3ヵ月後の9月に事故で他界してしました。海軍兵学校は学生は救援活動しなかったのは父から聞いておりました、しかし授業のない教員は救援に市内に行ったといってます。そこらの証拠を今集めています、そのへんの情報を教えてほしいです。


ご投稿、ありがとうございます。
ご質問についてですが、私が父から聞いていましたのは、被爆の3日後(昭和20年8月8日)ぐらいから広島周辺の陸海軍から救援部隊が多数増員され、父が主に活動していた元安川でも多くの兵隊が死体の収容・焼却作業に従事したと聞いています。しかし、それがどこの部隊であったかは聞いておりませんし、父もそこまでは知らなかったと思います。
また、爆心地付近で作業に従事していたのは軍隊関係者であって、民間人は、家族の捜索をされている方々を除き、殆どが広島市内から避難されていたのではないか、ということでありました。(正確なことはわかりません)
私が知るところ、「一橋大学社会学研究科」でヒロシマやナガサキの詳細研究を行っておられ、多々の論文や研究著作なども出版しておられます。私も一度、同大学の研究リーダーであるH教授とお目にかかり、ヒロシマについて意見を交換させていただきました。残念ながらH教授は本年3月で定年となり退官されますが、近々、同大におじゃまし、後継の方々にお目にかかりたいと思っていますが、その際、小林様のご質問をぶつけてみようと思います。
 いずれにしましても、私ごときが多くの行動をすることは困難でありますので、私は当面、現在の小中学生への講話活動に全力を注ぎたいと思っています。
池田眞徳
 
 

みら吉さん

大阪市旭区生江

男性

小学生


私は小学校で戦争の事原子爆弾のいろいろなことを
学んできました。
修学旅行ではヒロシマに行って原爆の恐ろしさや、
どんな被害をうけたのか、被害を受けたかたに
お話してもらいました。
私はまだまだなにもわかっていないけど、
でもどんな辛い思いをしたのか、
どんな想いで今まで暮らしてきたのか
そういうことは誰よりもわかっているつもりです。
だから被害を受けた人に勇気をあげたいなって思いました。

K.O.さん

茨城県取手市

男性

久しぶりにホームページを拝見したところ講演を開始されることを知りました。私は1年前に「ヒロシマの九日間」を読んでいたのですが、その時の衝撃は今でも忘れられません。
自分の子供にもこの本を読むように勧めたのですが、どうも最近の子供は活字に親しみがないようで、特にこの本のような内容ですと初めから拒否感があり困っていました。
しかし、原爆の恐ろしさは子供にも理解させたいと思っていますので、是非とも講演を聞かせたいと願っています。
茨城県で講演されるときには、子供を伴って拝聴させていただきます。
「ヒロシマの九日間ホームページ」には、講演のスケジュールを掲載していただけませんでしょうか。
よろしくお願いします。


K.O.様

ご投稿ありがとうございます。
小生が講演を始めようと思ったきっかけは、貴殿のご投稿にもあります様に青少年達(大人の方々も含まれると思えますが・・・)に原爆の残酷な有様や被爆者の悲惨な姿を伝え、彼らにその実態を理解して欲しいがためです。
最近の映画やテレビを見ていますと、残酷なシーンがむしろ「カッコよく」描かれ、より残酷・残忍に人を殺すことが一種の憧れに似たような感を持たせていることに大きな疑問を抱いておりました。
かといって、これらの娯楽映画等を批判するつもりは毛頭ありませんし、小生自身も面白がって見ていることも確かなのですが、娯楽としての残酷さと同時に、真実の残酷さや悲惨さを理解することが大切であると思っております。
小生の著書「ヒロシマの九日間」で、父が原爆資料館の中でたった一言漏らした「綺麗すぎる・・・」という言葉が、各界に大きなインパクトを与えているようで、朝日新聞や中国新聞他、多数のメディアでもこの言葉を取り上げていただいております。
この「綺麗すぎる・・・」という言葉の意味を、果たして青少年たちはどう理解してくれるのか?
その意味を伝えていくことが小生の使命であるような気がしてなりません。

池田眞徳

オレユニ通信様

書評

神奈川支部の同期会の方で、ヒロシマの原爆を江田島で生で観たという方がいます
海軍兵学校に在学中だったそうです
そのような話を聴いていたこともあり、
この本を手に取りました
読み進めると
原爆の恐ろしさがいやおうなしに迫ってきます
こんなに衝撃を受けた本は最近ではありません


yoshidaさん

東京都中野区

男性

会社員 


池田義三さんが広島で行った救出活動がどれだけ困難であったのかその状況は自分には想像もできませんが、本を読みながら救助作業の様子、人々の様子の悲惨さに思わず読み飛ばしそうになりました。
戦後、同僚のみなさんが、若くして亡くなられたのはどう考えても、放射能のせいと思われます。原爆症が二世代、三世代と続かないように祈ります。


K.Mさん

山形県酒田市

女性

看護師 

先日感想を投稿させていただいた者です。
お忙しいところお返事をいただきありがとうございました。感激いたしました。それを見た中学3年の娘が関心を持ち、今年の夏休みの自由課題で原爆についてまとめてみたいと申しております。
そこでご相談なのですが、まとめるにあたり「ヒロシマの九日間」を一部引用させていただくことはできますでしょうか?引用にあたっては題名、著者名、出版社名、引用ページ等引用の際の約束を守らせます。
ずうずうしいお願いですが、ご検討いただければと思います。

K.M様

被爆から62年が経過しました。
テレビや新聞などでも、今年のヒロシマやナガサキでの記念式典は従来に増して「反核」の声が渦巻いていた模様です。
そんな中、ご令嬢が原爆に対して関心をもたれたこと、本当に嬉しく思います。
私の小誌でお役にたつのであれば、どうぞご活用ください。
使用目的が非営利であれば出版社も了解されるとは思いますが、一応私から連絡だけはしておきます。
頑張って良い自由課題が完成されるよう、ご令嬢によろしくお伝えください。

池田眞徳


K.Mさん

山形県酒田市

女性

看護師 

 昨年、2度目の広島原爆資料館訪問をいたしました。1度目は高校の修学旅行で訪問し若かったせいか、まるで作り上げられた映画のセットでも見るような感覚で館内をなんとなくまわったような気がします。しかし、昨年の訪問では、とても強いショックと、胸の奥からこみ上げてくるような悲しみを覚えました。”これから先、何年も何百年も忘れてはいけない事実”そのような感情が私の心の中に芽生えました。”もっと知らなければ・・・”という思いから原爆に関する本を探していたところ、池田様の「ヒロシマの九日間」に出会いました。何よりも感じたことは、文章にするにあたり、思い出さなければならない辛さがおありになったでしょう、ということでした。戦争を知らない私にとってとても大切な本になりました。ありがとうございました。原爆が投下され、いつもと変わらぬ日常生活を送っていた方達が、あっという間に「死」「痛み」「熱さ」「渇き」「恐怖」「悲しみ」「絶望」・・・そのどん底に、子供もお年寄りもみんなみんな無差別に叩き落されてしまったのですね。想像しただけで涙がでてきます。この事実があったことを少しずつ私の子供たちに教えています。世界中の誰もが二度とこのような事で悲しんではいけないと・・・
 池田様はじめ、被爆されて今なお後活躍されている方、病と闘っている方、皆様の心の幸福と安らぎを願わずにはおれません。
 池田様、ヒロシマの九日間を残して下さり本当にありがとうございました。どうかどうかお元気でお過ごしくださいませ。

K.M様

ご投稿ありがとうございます。
いただいたメールを早速父(義三)に送りましたところ、大変喜び、勇気付けられたと感激しておりました。
父に成り代わりまして、重ねて御礼を申し上げます。

昨年6月に「ヒロシマの九日間」を出版してから1年が経過し、その間、多くの方々からご意見や励ましのお言葉を頂戴いたしました。
小誌が、原爆の惨状と、その惨状のなかで倒れた方、また生き抜いた方々の辛苦の極一部を皆様方にお伝えできたことに、作者として嬉しく思っております。
しかしながら、未だ核の脅威が去りやらぬ世界にあって、日常の仕事に追いまくられ、平和のために、また被爆された人々のために何一つできていない自分を情けな思っております。

ご投稿、本当にありがとうございました。
K.M様におかれましてもご自愛いただき、お元気にお過ごしいただくことを祈っております。
ご家族の皆々様方にも何卒よろしくお伝えください。

池田眞徳



 匿名さん

会社役員

男性

海外在住

読みました。時間を掛けて一気に読みました。
悲惨な現場の地獄絵を、これ程リアルに感じたことはありませんでした。

読みながら様々なことを考えました。
原爆に関する著作で、今までにこの様な内容構成、被爆体験記は多分無かった
ではないか、とそのユニークさを感じました。
更に、単なる体験記ではなく、非常に高いドラマ性があり、これは映画になる、と思いました。
多分どこからかお話がありそう、もしかしたらすでにあるのかも知れませんね。

 長崎に落ちた同じ時間にヒロシマで投下の噂におののく、これ、小説としても今年の大賞候補だと思います。
秘密の食料基地、人と人とのめぐり合わせの構成・構図が素晴らしく、これは父上の創作か、貴殿の創作か、と思います。多分貴殿の創作ではないでしょう。

 いずれにしてもこれは名著でした。

 希望があります。これを英語に訳して、アメリカ人に読ませるとよいと思います。
アメリカのみならず、全世界に知れ渡ることを希望します。

 匿名さん

雑誌編集長

男性

東京都

まずこの本は構成がすぐれていました。
息子が父について、原爆記念館をまわるはじまりとおわり。
そして、おじいいちゃんの9日間。
作家ではない人だから、より率直にヒロシマのまんなかでおこったことが書かれていいると思いました。

なにも声高に主張していないぶん、重たい事実がうかびあがっていますね。

当分この本のこと、忘れないと思います。

山桃の話は千草ちゃんの近い親戚の話ですよね?
手紙をくれた人とは、会えたのでしょうね。

本の装丁も素晴らしい。

とにかくいい本をありがとうございました。




 Y.I.さん

女性

京都市


「広島の九日間」を読んで

 昭和20年8月6日、人類史上初の原子爆弾が広島に投下されました。

 [ヒロシマの九日間」という手記を書かれた池田義三さんは、自分も爆心地から4キロメートルほど離れた場所で被爆されましたが奇跡的に無傷ですみ、被爆直後の爆心地で陸軍の兵士として遺体の収容や焼却をされていました。爆発の直後から、爆心地にむけてトラックで様子を見に行こうとしますが、たくさんの人々が避難をしてくるため、思うように進めません。また避難してくる人が最初のほうは軽症でまさしく「人間」だったのですがだんだんと全身が焼け焦げ人間でありながら人間とは思えない重症の人ばかりになっていったと言っておられます。
私は広島に行き、世界遺産にもなっている原爆ドームや原爆資料館を見学して来ました。
 投下目標とされた相生橋の下を流れる元安川は、当時、炎から逃れ、水を求めて川に飛び込んだ人の遺体でいっぱいだったそうですが、今はおだやかに川が流れ遊覧船が浮かんでいて、今から61年前にこの町に原子爆弾が落ちたとはとても考えられませんでした。原爆資料館にはたくさんの被爆者たちの遺品がありました。遺品の中には、ぼろぼろに焼け焦げた衣服やカバン、くつなどがたくさんありました。その横には建物疎開をしている時に被爆したが、何とか自力で親の元に戻り2,3日後に息を引きとったなど、持ち主の最期が書かれていました。また被爆者の様子を人形で作ってありました。顔には大きな火傷を負い、両手を斜め前に垂れ下げ、その指先から、皮膚が垂れ下がっていました。生々しいその姿を池田義三さんはきれいすぎると言われています。
 原爆資料館には現在核を持っている国とその量を表したものがあり、私はこんなにたくさんの国が核兵器を持っているのかと思い驚きました。61年前の科学技術では想像できないような核爆弾が作られ、もしそれが戦争で使われたらと思うと恐ろしいです。広島に投下された原子爆弾は爆心直下の島病院付近では3000度を越す高熱だったといわれていて、爆心地付近には人間など生き物の死体が見つからなかったらしいです。3000度の高熱が一瞬にしてすべてを破壊し、溶かしてしまったのです。

 現在も世界中のいたるところで戦争がおこっています。日本に二度、原子爆弾が投下されて以来原子爆弾は使用されていませんが毎日どこかで誰かが戦争によって命を落としています。世界中を巻き込むような戦争はありませんが内戦もたくさんあります。日本も靖国神社への参拝などで中国や韓国ともめています。私はそこから戦争につながらないかと心配です。
宗教や考え方の違いからおこる他国との意見のくいちがいを武力ではなく、話し合いで解決してほしいです。各国がより威力のある核兵器を争うように使っていますが、誰も核兵器を持たなければ、核戦争は起こらないのです。
広島の原爆ドームや平和記念公園などにはたくさんの外国の方もいました。61年前に広島でおこったことについて日本人だけでなく、外国の人ももっと関心を持ってほしいと思います。そして世界で初めて原子爆弾が投下された広島から平和の輪が広がればいいと思います。




 政治・経済誌

月刊公論の書評から


 6月中旬、出張で広島の会社を訪問した。仕事を終え、帰京する飛行機のなかで読む本を物色するため本通り商店街にある書店に立ち寄った。書店に入ってすぐの棚に、5冊程度、ひっそりと平積みされていた「ヒロシマの九日間」が目に留まる。
カタカナで「ヒロシマ」と書いてあれば原爆関連であるらしい。誰がそんなルールを設けたのかは知らないが、せっかく広島まで来たのだから、広島に最も関連がある「ヒロ
シマ本」でも読んでみようかと、その程度の気持ちで一冊購入した。
 広島空港へ向かうバスのなかで買ったばかりの本を読み始める。読む前は「被爆体験者の手記であろう」と思っていたのだが、単なる手記とはまったく異なる内容だ。空港までの1時間があっという間に過ぎ去ってしまい、走るようにチェックインして機内に入り、すぐに続きを読み始めた。飛行機を降りてからも同様で、とにかく「息もつかせない」とは正にこのこと。あげくの果てには羽田空港の喫茶店で1時間半をかけ、読み始めから3時間強を費やし、とうとう一気に読み終えてしまった。久しぶりの興奮した作品であった。
 簡単にストーリーを紹介しておく。
 昭和19年、弱冠17歳で陸軍の船舶兵特別幹部候補生隊に入隊した主人公は、翌20年、江田島の教育隊に配属される。8月6日の早朝、軍需物資調達の使役として広島市内に向かい、その途上で原爆に遭遇した。と、この辺りまでは従来の被爆手記と同じなのだが、この後がもの凄いのだ。
いったん江田島に戻った主人公だが、すぐに広島市街の消火命令を受け、部下8名を従えて再び広島市内へ向かう。そして、6日夜の消火作業、7日早朝には爆心地に入り遺体の収容や焼却作業に従事することになる。この間のストーリーが見事に展開され、息つく暇さえ与えてくれない。焼け爛れた被爆者が徘徊する様子や爆心地の有様が、自分自身がさもそこにいるかのような錯覚を与えられる。殊更、惨たらしいシーンの連続に緊迫はするのだが、以外にも読みやすく、また、不思議なくらい嫌なあと味を残させないのは、著者の非凡なテクニックなのかも知れない。このようにこの小説のメーンは、被爆時から江田島へ帰隊するまでの九日間が綴られているノンフィクションであり、主人公たちの悲惨な作業のなかで、戦友や被爆者との人間模様がうまく描かれ、思わず涙するシーンや、ほっと胸を撫で下ろす場面が挿入されている。これはまさに、和製の「バンド・オブ・ブラザーズ」である。




 大崎 洋子さん

女性

大阪府泉南郡

大崎さんご本人の了解を得て
姓名を記載しています。

  残暑お見舞い申し上げます。
長い梅雨が明けるとともに、焼けつくような猛暑の日々、暦の上ではもう立秋ですが、まことにしのぎがたい今日このごろです。
この度は本の出版 心より御祝い申し上げます。
  池田様ご夫妻にとり今年の夏は何よりの記念すべき年になりましたね。
八月六日の原爆の日、未曾有の大惨事に、私達の想像を遥かに越えた実体験のご本、後世の人々への教訓ともなるべき重い重い本でした。
  奥様とは、刺繍を通しての長いお付き合いになりますが、このご本により日頃のご主人のあの柔和なお人柄の内に悪夢のような九日間を体験されたこと、想像だに及びませんでした。
阿鼻叫喚の中を救援、遺体収容作業等々、まるで映画の一シーンを想像する如きでした。
昨今の世界情勢を考がみても心から核廃絶を願うばかりです。
  著者のご子息 眞徳様も、さぞ立派な御父上様を誇りと思われることでしょう。
表紙を飾ったお孫さんの千草さんの絵も、本に見合った素敵なものでした。
  池田家にとり平穏な日々が続くことをお祈り申し上げます。
 まだまだ暑い日々が続きますが、ご自愛下さいませ。




 青葉台・杉田さん

大阪府和泉市


この度はお父様の体験談を読ませて頂いて凄い体験をした人だなとびっくりしています。
毎日、 私宅の前を通って松尾寺えお参りをしておられます。
時々立ち止まって話しをしていかれます。
とても物静かなかたです。奥様とも親しくして頂いており主人と同じ年ぐらいかなとお見受けしていました。
これからもお元気にお過ごし下さいます様に。



8月6日

書評サイトの「黒猫に小判」
掲載されていました書評です。

この作品は、著者の父、池田義三氏の手記を元に書かれていて、
妙なドラマ仕立てぢゃないところが、なおよいと思う。
戦争ものって、どうも描き方が・・・なかなかすきになれない。
(特に映画の場合、それを強く感じる。)

18歳の少年(青年と云うには18歳はまだまだ幼いと思う・・・)の壮絶な九日間です。
途中何度も目を背けてしまいました。
"亡き被爆者を冒涜するような表現"と本文に出てきますが、
あえてそのような表現を使うならば、そこいらのホラーより、よっぽど怖いです。でも、

絶対に忘れてはいけないことがある。
そして、知ろうとしなければいけないことがある。

毎年この時期TVで、「火垂るの墓」やなんかを放映するのは、大事なことだよなーと思います。
しょっちゅう云っているけど、戦争は嫌い。
ただそれだけ。とっても単純なことなのに・・・
憲法九条の改正なんて、絶対にあってはならない。

字も大きく、ユーモラスな部分もあるので、読み易いと思います。
ぜひ、たくさんの方に読んで頂きたい。

表紙は、林重男氏撮影(広島平和記念資料館所蔵)の写真を元に作られているそうです。




K.K.さん

70歳  女性

香川県高松市

  「 ヒロシマの九日間 」    ビデオ    を拝見、
 終始 胸がつまる思いにて、 涙ながらに泣かされてしまいました。
私も、 はや古希を迎えますが、遠い昔を顧みまするに、 昭和34年の頃より、    20年もの永き間、音楽教師として貴社にお世話になりましたが、 広島にかかる事など、貴方様から、一度も聞いたことがございません。
こんな苛酷な目に遭遇なされ、且つ又、人には出来ぬ救援を成されて来られた事実を読ましていただいて、原爆の凄惨、悲惨さを始めて知らされると共に貴方様のことが、よく解り、感激の中にも感動致しました。
 後世に伝えるべき、    本当に良い本をご出版なさいましたね !
この度びは、本当に有難うございます。
この上は、忌まわしい過去をお忘れ戴いて、残り人生を安らかに、尚且つ、長寿をまっとうなさいます様、お祈り致します。 




70歳  女性

島根県出雲市

 「ヒロシマの九日間」    もう胸がつまる思いで、感無量    感動のうちに、一気に読ましていただきました。
更には  ビデオ で、 久々に涙しては感激に  したりました。
私が貴殿宅にお世話になりました昭和34年頃、田舎者の私をご両親共々 大変お心使い下さいまして親切にしていただき、私も今年古希を迎えることができました。
あの頃、貴方様より広島の  「ひ」  の字も聞いたことが無く、只  物静かな、やさしい気持ちの持ち主の方とばかり思っていました。
人には、口には出して云えない  つらい過去があるとは申せ、あまりにも苛酷にて、 でも  よくぞ  口を開かれましたね !
でも    もう今、  申し伝えないと、いけないと思います。
この国を背負ってたつ者達も、くわしい事はわからず終るところでした。
貴方様の勇気を尊敬致します。
私も幼女のころ、  一被爆者の死を見ただけで、 今だに幼虫を見ることは出来ず、 見ない様にして一生を 終わりつつあります。
貴方様は、多くの方々の死に立合い、  口には出せない思いをしながら、現在お過ごしのこと、どうか   この上は、心安らかにお過ごしのこと、   遠く  出雲より  お祈り致しております。




M.O.さん

59歳  男性

千葉県船橋市

”ヒロシマの九日間”を読ませて戴きました。
もっと早く感想をメールしよう思いながら遅れてしまいました。

以前、叔父が広島の原爆体験者とお話しましたが、恩師も長崎の被爆者でお二人から原爆の悲惨なお話を相当聞かされ、心を痛めていました。
聞いたお話の内容が本に書かれていると思うと中々読む気になれませんでした

意を決して読みました。
聞いていた話より、もっと強烈、悲惨、酷い。
心臓がドキドキしながら、思わず目を伏せてしまいそうな感じで読みました。
非常に当時の事が鮮明に伝わり、疲労しました。

戦争の酷さが人によく訴えれられた素晴らしい本です。




T.S.さん

72歳  男性

大阪府和泉市

なかなか迫力があり、読み応えがある内容で、一気に読んでしまいました。
あの様に、実際に原爆に遭って、直ちに救出活動をされたことは、精神的にも肉体的にも大変なことだったことが窺われます。
この本の迫力は、被災直後からの広島の惨状に接し、その実体験の惨状が克明に記載されていることに因るものと思われます。
多分、原爆が投下された直後からの広島を実際に見て、本に著した人は池田義三さんしかいないのではないかと、私は思いました。
    本を読み始めてから私はすぐ、原爆投下直後から、爆心地で作業されたことで、原爆症に罹るのではないかと心配しました。
その後身体的に苦しい経験をされたことが書かれていて、本当に大変なことだったのだ と思いました。 また、軍隊というところも、ほんの少し解ったように思います。
    これから本格的な暑さになっていきますので、お体には十分お気をつけ下さい。




松岡 晃 さん

60歳代  男性

堺市

松岡さんご本人の了解を得て
姓名を記載しています。

 「ヒロシマの九日間」拝読させていただきました。
昨日(6月24日)、予約していた近くの紀伊国屋書店で入手。
途中、涙で目が曇り、何度か休み休みしながら読了しました。
よくぞこの著書を完成・発行されたものだと心から拍手を送ります。
そして、貴重なドキュメンタリーとして、我が国のオピニオンリーダーはもちろんのこと、広く一般市民も読んでほしいものだと願っています。
更には、翻訳されて、世界中の人々にも読まれて欲しい。

インターネットで「ヒロシマの九日間」を探しましたが、検索できないまま10日ほど経過しました。 たまたまグーグルに関する本を読んでいたので、そうだグーグルで引いて見ようと思ってやってみたら、すぐ出てきて嬉しく、概要を確認でき、書店に発注した次第です。

長いことご無沙汰していますが、貴兄の益々のご活躍とご尊父、義三様のご健勝、ご多幸を祈ってやみません。

                             



H.A.さん

59歳  男性

茨城県

「ヒロシマの9日間」ようやくインターネットで入手いたしました。
昨日1日で一気に読み終えました。

大変な労作であることを実感いたしました。
文章の一言一句に作者の裂帛の気迫を感じさせられ心打たれた次第です。
「広島」に関わる本はあまた出版されていますが、お父上のような原爆体験に基ずいて記述された本は初めての事ではないでしょうか。

立派な本を誕生させられたことに改めて敬意を表します。と共に心よりお祝い申し上げます。
どのくらいの被爆経験者がご存命かは知りませんが、この本に触れることによって、あの地獄のなかで使命とはいえ、身を投げ打って被爆者の救済にあたった若者達がいたことを知ることは救いになることだろう、と思った次第です。

出版までにご苦労をなさったことでしょうが、この本を誕生させるための産みの苦しみをなさったということでしょう。

ご苦労様でした。感謝申し上げます。



福原敬子さん
  
71才  女性
  
大阪府 貝塚市

福原さんご本人の了解を得て
姓名を記載しています。

 吸い込まれるように、一気に一日で読み終えました。

 世界の未曾有の悲劇、全人類に訴え遺さねばならない意味で、日本の国にとって大切な大切な記録。風化させてはならない現実を、ご子息様がよくぞまとめあげて下さいましたことに、心いっぱいの感謝と敬意を表すものでございます。

 身も震え上がるような想像を絶する現場の光景、表現もしがたいこの世ではあり得ない光景を生々しく描写され、わかりやすく表現して下さっており、なお文字の大きさも我々高齢者にも読みやすいでした。

 防火用水槽にとび込むと、そこも熱湯。トラックに引っぱり上げてあげようにもズリむける手の皮膚。アルコールづけにされた皮膚も広島原爆資料で、30年前にかみたのも、被爆者がお化けのような様相してゾロゾロ歩いている様子が絵に描かれたのも鮮明に印象に残っておりますが、その不気味さも「美しすぎる、きれいすぎる」とまで書かれているのに、その現実のすさまじさ、いかに言語には絶するものであったかを察し知らされました。

 小学生・中学生たちが、卒業旅行は、平和の学習として、必ず毎年広島や長崎に行っておりますが、それを教え導く先生も、校長さんご自身も、戦争を知らない世代の方々です。

 口で語り伝えるには、体験者の方々は高齢。文章化されることにより、長く末代に伝え得るすばらしい功績です。

 多くの人に読んで頂きたく、先ず身近かな友人、知人、校長さん、親類にも、プレゼントしたく、貴重な数の中から、あつかましくも10冊もお願い致しました。




K..S.さん

63歳  男性

大阪府阪南市

 「ヒロシマの九日間」 この本は、塚本糸美さん(旧姓  池田糸美)のお父さん(池田義三氏)が広島に原爆が投下された昭和20年8月6日午前8時15分、爆心地より3200mの宇品で被災されたにもかかわらず、一八才の少年上等兵として8名の部下を指揮し、死体搬出や 焼却作業に従事した九日間の回顧録である。
60年を経た今、  ”  この世の出来事が、”    体験したものでしか理解できない筆舌に尽く しがたい凄惨な状況、助けたくても助けることができないくやしさが記録されている。
 
  広島の原爆で24万人が被爆し10万人以上が死亡したと記録されている。
 
  幼いころ、夕暮れになると、低いうなるような爆音をのこしてBー29の編隊が西の方向に飛んでいった。    そのなかに原爆を投下したエノラゲイが入っていたのか ?
もはや迎撃する戦闘機もなければ応戦する高射砲もない。 せめて ミッドエー海戦で壊滅的な大敗を喫した時、GIVE−UP していたら  こんな悲惨な思いをせずにすんだはずである。
司馬遼太郎は、小説「坂の上の雲」で日本が白人国家であったらマッカサーも原爆投下を躊躇していただろうと言っているが 、 同感である。
 
    私の叔母は長崎原爆で被爆し、5年後に原爆症で亡くなった。
幸い、池田義三さんは原爆病の症状、遺体焼却作業等の夢に悩まされながら喜寿のお祝いをうけられたことは喜ばしいかぎりである。
 
    この本のなかで  ”  いとちゃん  ”は可愛い娘で登場しますよ。読んでね!
地名が多く出てくるので参考の為、広島市内図を添付したよ。




木村静雄さん

82歳  男性

大阪府和泉市青葉台

                 出    会    い
 
    4〜5年前の初夏の頃だったかなぁ ?
泉州 阿弥陀山 松尾寺本堂裏の階段で、
         今日は、いったい何を考えてるんだろうか ?
         今日の日は、思い悩んでるように見える ?
         今日は、なんだか思いふけっているようにも思われる ?
     どのような難儀、難症をかかえ、難渋しているのやら ?
          お住まいは、どちらの方かなぁ ?
    3〜4日ばかりは、  半信半疑の推測、その真相の程はわかりようも無いが、想像を巡らしては、横目で見て、見ぬ振りで通り過ぎる日々でしたがなぁ
    ところが今度は、人が違ったように、連日    何かを書いている貴方が、
それはもう真剣そのものだったがね !
     俳句なのか ?        それとも短歌なのか ?       さっぱり解りようもないが、
周りの動静には、一切  目もくれず  唯々  一心不乱のようじゃった !
近寄るにも、近寄りがたい  ふんいき  だったなぁ。
    わたし自身も、長崎での被爆者の一人じゃけど、まさか    あなたが世界に類無き、あの悲惨  凄惨を極めた原爆の体験を綴っておられようとは、思いもせなんだなぁ  !
何時しか 1ヶ月にも及ぶ月日が流れた或る日の昼前だったかなぁ ?
珍しく  缶コーヒーを手にして休息なされている貴方を、お見かけしたんで、
意を決して貴方の横に腰を下ろし、
 
        「     こんにちは    !    」
 
                              「    あっ    こんにちは    !    」
 
            お互いが交わす初めての    ごあいさつでさぁ    !
  これが貴方との交流の始まりでしたがなぁー。
 



本ご購入に関する質問
および回答

●近所の書店に買いに行きましたがありませんでした。 どこにあるのですか?
●「ヒロシマの九日間」を購入しようと本屋で探しましたがありません。店員に聞けば、取り寄せるのに10日間くらい必要と言われました。早く手に入れる方法がありますか?

 など、本の購入に関する質問を多数いただいています。
「ヒロシマの九日間」の初版印刷は800部程度でして、そのうち500〜600部が全国の書店に配本されているそうです。 配本されている書店は全国に400店程度で、その店舗名はこのホームページの「本のご購入」欄に記載しています。
しかし、必然的に一店舗一冊の在庫数であるゆえ、平積みの人気本とは異なり、探しても中々見つからないし、一冊売れたらすぐに「在庫切れ」という状態になってしまいます。
私自身も、都内の在庫がある書店を数件訪ね歩きましたが、棚の中に並べられた一冊の本を探し当てるのは至難の業で、結局、店員さんにコンピュータで探してもらいました。
最善の解決策は、「ヒロシマの九日間」が人気本となり、どこの書店へ行っても平積みしているようになることですが、しかし、そうなるにはこの先、相当な努力と運が必要だと痛感しいています。

 こんな状況ですので、現在、これといった解決策はありません。
誠に申し訳ございませんが、お近くの書店で在庫がない場合、店員さんに言って取り寄せていただくか、または、このホームページの「本のご購入」欄に記載しています「インターネット販売」でご購入をお願いいたします。
本当に申し訳ございません。
 著者 池田眞徳



主婦  E.U.さん

46歳  女性

東京都

30年以上も前、高校の修学旅行で広島原爆資料館を訪れました。
当時、本当に身の毛もよだつ思いで観て回ったものでしたが、「ヒロシマの九日間」の本を読み、そしてこのホームページのビデオを拝見して、作者のお父様の表情や声から映像には残しきれない、言葉などには言い尽くせない、そして文章には表現できないものがもっともっとたくさんあったのだろうと痛感し、涙が止まりませんでした。
被爆者のあまりに悲惨な様子、軍の方々の救助作業や遺体の収容・焼却作業など、資料館の資料や写真からはとうてい想像できない有様が心に描き出され、近来にない迫力を感じ、平和の尊さを痛切に願うようになっております。
一般の方々だけでなく、小中学校の教材に取り入れてほしい一作であると思います。
今、子供たちにも読ませています。




青葉台    竹田美智子さん

68歳  女性

大阪府

竹田さんご本人の了解を得て
姓名を記載しています。


      終戦の特集見ては涙ぐむ
                    夫は今宵もぢっと動かず



      八月の六日近づき広島の
                    かの日思いて涙ぐむ夫



青葉台    竹田 博さん

71歳  男性

大阪府

竹田さんご本人の了解を得て
姓名を記載しています。

      幸せにちょっと背を向け暮らしおり
                                         原爆の業火吾より去らず
 
  
             自分だけ生きいていいかと問いながら
                                          原爆の日より六十年が過ぎぬ

          むととせ
             あの日から六十年の特番の
                                          被爆地の画面切なく見入る



陸軍船舶兵特別幹部候補生隊
第二期生会


会長 神尾栄助さん

神尾さんご本人の了解を得て
姓名を記載しています。

この「ヒロシマの九日間」は、 同期生池田義三氏の昭和20年8月6日、 広島で原爆に遭い、 被爆者の救援活動に従事した8月6日より14日の九日間の体験を綴った手記を、氏の長男眞徳さんが纏められたものである。
義三氏は昭和19年17歳で陸軍船舶兵特別幹部候補生隊に第二期生として入隊、その後広島県江田島にあった海上挺進隊に特攻隊要員として転じ、  訓練中にこの原爆に遭遇した。
原爆に関する著書は数多く出版されており、 特幹二期生会から出版された 「特幹二期生の記録」の中にも原爆に関しての記述が多数寄せられている。  どれもその悲惨な状況は涙なしには読めないものであった。
この言語に絶する惨禍の記述で特に私の心に強く心に残っていることは、「文章の中には阿鼻叫喚の音が無い、血と炎で彩られた色が無い」という現実と記録の差のあまりにも大きいことが述べられていた一節である。
 本書でも最後の「エピローグ」の冒頭に、 「綺麗すぎる」 と原爆資料館の展示物に対する感懐を述べているところがあり、 なかなかこの悲惨な状況を伝えることは難しいことであるがこの著書から多少でも地獄の苦しみに叫ぶ声を聞き、色を感じて、原爆の、そして戦争があってはならないということの思いを新たにしたいものと思う。



同級生    石橋節夫さん

79歳    男性

岸和田市

石橋さんご本人の了解を得て
姓名を記載しています。

斯くまでも    ひどい原爆の惨状を伝えた著作を、私は初めて鳥肌が立つ思いで 一気に読み終えた。
原爆の閃光を浴び、 爆風で吹っ飛ばされ、 しかもその後、爆心地近くでの遺体の収容や焼却など、言葉で云えば簡単だが、そこに内在する幾多の辛苦を実体験された池田上等兵でなければ書き得なかった文章だと思う。
そしてまた、 池田上等兵と共に辛苦を分かち合った8名の部下達や、他の場所で同様の辛酸をなめて労苦を共にした多くの将兵達に対し、今ここに深甚なる敬意を表するものであります。
とにもかくにも原爆の惨禍は、この「ヒロシマの九日間」で語られている如く、いや、実際の現場の地獄絵は、この著作をはるかに超えた、文字通り筆舌につくし難い凄惨さであったことは想像にあまりあることだと思います。
今までの私は、ここに語られた状況を、他の媒体により幾度となく見聞したが、それらを全く遠くで起こった他人事のような感覚でしかとらえていなかったことに対し、慙愧の念を禁じ得ない思いで一杯です。
 被爆地から遠く離れた異郷の地に暮らす多くの人々にとって、 「ノーモア    ヒロシマ」のスローガンは、十分に理解はしているつもりでも、私と同じく、その度合いやその思いの深さの尺度において大きなズレがあるのではないかと思う。
昭和20年8月6日より起算し、間もなく 61回目のその日が巡って来ようとしています。
今年61歳以下の人達は 、 「ヒロシマ」 や 「戦争」 の悲惨さを直接知らない人達となります。世代が確かに進み、戦争を知らない人々が多くなる中で、戦争の悲惨さも当然、遠い昔のこととして忘れ去られようとしている昨今、世界は又    核問題をめぐり、あやしげな方向に舵をとりつつあるように思えてなりません。
原爆に対する無関心層が多くなる中で、61回目の 「原爆の日」 を迎えるに当たり「ノーモアヒロシマ」 を いまいちど肝に銘ずると共に、この 「ヒロシマの九日間」 が、よき語り部として全世界の人達に読み次がれていくことを希うものであります。



無職    チヨマツさん

80歳  女性

大阪府
 
「ヒロシマの九日間」のホームページのビデオを、孫の手ほどきで見せて貰いましたが、近頃のテレビや映画より、遥かに見応えがありました。
私共には、考えられない程の    えらいめを成されて来られ、更には、人として、まねることが出来ない難事を遂げてこられた事実を聞かされ、 唯ただ涙するばかりです。
全身が感動に震え、経験したことの無い涙、涙、久方ぶりの感涙にむせぶビデオでありました。
    又の日に、もう一度見たい。と、 孫にせぶっております。
    本当に有難うございました。



農業   S.T.さん

81歳   女性

 大阪府 
  

せがれの栄一が、めがね持っておいでって言うので、行って見たら    パソコンとか言うビデオに、兄ちゃんが写ってたもん
そりゃ    もう    びっくりしたで !  
兄ちゃん、    兄ちゃんも、    ほんまに    えらい目に遭うて来たんやなぁ
こんなに、えらい目に遭うて来たやなんて、
                                今の今まで    ちっとも知らなんだわ。
そりゃもう    泣けてきて    泣けてきて    もう    たまらなんだわ
こんなに貰い泣きするの、ほんまに初めてじゃで  !   
                    ほんまに    ええもん見せてもろうて、
                            ほんまに    おおきに    ありがとさん




メーカー勤務 M.U.さん

30代 女性

東京都北区

原爆の恐ろしさ、悲惨で救いようのない事実をこの本を読んで知ることが出来、とても感銘を受けました。原爆直後の被害地の様子、被爆した人たちの惨状やそれに関わった兵士たちの想像もつかないような過酷な任務などの状況が非常に解り易くリアルに映し出されていて、一気に読み終えてしまいました。
平和が当たり前の世代に育った私は、この本を読んで非常に考えさせられました。
一人でも多くの人に読んで貰いたい
一冊です。



元新聞社勤務 S.T.さん

69歳 男性

大阪府貝塚市

戦争末期の昭和19年、戦況ままならず一億総武装令のなか、学業半ばの17歳で志願して入隊し、翌18歳の夏、閃光と爆風に遭遇。
灼熱のヒロシマで焦土のなか、少年兵士が人類誰もが経験したことのない被爆死傷者の救助や遺体処理作業の任務を遂行する凄まじさを読みながら、当時、食糧難と連日の空襲に脅えていた国民学校3年生の自分たちの戦時生活を思い起こした。
さらに時を経て戦後10年、米軍基地問題に揺れ、神武景気の始まる自身18歳の少年時代を、そしてまた、ちょうど今18歳になる我が孫娘の現代っ子生活を重ね合わせ、60年の時の流れを感じつつ感慨を胸に一気に読み終えた。
一瞬にして灼熱地獄と化した想像を絶する惨状は、その目に焼き付き、自ら体験した者のいかなる迫真のドギュメントをもってしても、まだまだ筆舌に尽くしきれないであろう。
いつも言われることではあるが、この大きな犠牲を忘れることなく、あらためて世界平和と核廃絶を願うばかりである。
いつの世も戦火の絶えない現実と、何らなすすべもない自分が何とももどかしい。




コンピュータ会社 T.Y.さん

56歳 男性

横浜市

ホームページ、Blog開設おめでとう。
何よりも「ヒロシマの九日間」の出版おめでとうございます。
まだ、本の方は読ましていただいてはないのですがホームページでのビデオを拝観させていただいた感想は非常に感銘を受けるものでした。
本の発売を楽しみにしています。



製造会社勤務 Y.M.さん

25歳 女性

東京都

著者の池田様から発売前の著書をお借りして読ませていただきました。
私たちの年代ではまったく想像すらできない被爆地の惨状に、ただ呆然とするばかりでした。特に主人公が被爆してから、広島市内にトラックで向かう道すがらにおいて、被爆者の群れと遭遇したくだりでは、被爆者たちの生々しい描写に触れ、持っていたコーヒーカップを思わず落としてしまいそうになったものでした。
その後、主人公たち一行が爆心地に向かう場面においては、自分自身があたかもその現場にいるような錯覚にとらわれ、著者の表現力に感動しています。
このような悲惨極まる被爆地を、本当に生々しく描写しているにもかかわらず、文章そのものが非常に読みやすく、3時間をかけて一気に読み終えてしまいました。
文句なしに感動しました。



自営業 S.T.さん

70歳 男性

大阪府

  若干17才の若さで志願して入隊し18才になった少年兵士達が、爆心地から4q地点で強烈な閃光と熱風に襲われる。軍人として負傷兵士を伴いながらも爆心地に向かう池田上等兵。目を覆うばかりの被爆死傷者の救助や遺体処理作業の苛酷な任務を遂行する極限の地獄絵をダイナミックに生々しく綴った体験記である。
 戦争末期連日連夜の空襲におびえ、食糧難にあえいでいた自身の戦時経験も思い起こしながら一気に読み通した。
  被爆体験記が数多くある中、60年を経た今日また新たな一冊が生まれたのである。長い年月胸に留めていた貴重な体験実話を世に出してくれた池田父子に敬意を表したい。
 ノーモアヒロシマと叫ばれて久しいが、未だに核廃絶どころか拡散の動きさえある現実をみるとき、願わくば世界の為政者達に、我が身に置き換えて一読願いたいものである。



出版社勤務  T.F.さん

36歳 男性

東京都

本作品は、被爆時の実情、その後の悲惨な現況が克明かつ冷静に映し出され、戦争という愚行の中に犠牲になった民たちの凄惨な時空が描き出されている。
過去、様々な被爆体験手記が出版されているが、これほど被爆時の瞬間から、被爆後の被害処理に携わった者のレポートは稀有であると共に、若き軍人として、またリベラルな思考の持ち主としての主人公の客観的視点は、戦争がいかなる無差別の殺戮の上に成り立つものかを突きつけており、歴史の証言として高く評価する。
残酷さ、悲惨さだけに目を覆うのではなく、この本に記されている真実と事実を直視する視点を多くの人々に発信する題材として、これほどリアリティな価値ある作品は他に類をみないと思われる。




調理師  I.S.さん

26歳 男性


東京都西東京市

被爆後、爆心地に向かって行く者の手記というものは、極稀であり貴重な作品なのではないだろうか。
被爆地がいかに残酷な状況であったかが克明に描かれており、戦争を知らない私達にもリアルに迫るものがある。
目を覆いたくなるような悲惨な状況下で処理作業に従事しながら、人としての暖かさを失うことなく被爆者に接していく主人公に、私達が忘れかけている何かを見出せる作品である。
単に戦争小説というには勿体無いほどの、文学的な仕上がりである。



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