陸軍入隊当時の池田義三
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あらすじ
 昭和19年、池田義三は17歳で陸軍船舶兵特別幹部候補生として入隊し、翌20年に広島県の江田島にある第十教育隊に配属された。
江田島では、人間魚雷艇の「マルレ」による訓練が連日続けられていた。
 8月6日の早朝、物資輸送の任務により広島市の中心部に向かうことになる。その途上、時間遅れのトラックを待っていた宇品西二丁目で原子爆弾に遭遇する。
九死に一生を得た義三たち一行は、軍命令を遂行するため市内に向かったが、被爆者の群れに遮られ前進ができなくなり、やむなく江田島に引き返す。
しかし、江田島では既に広島市内の救援命令が発令されていたため、義三を班長とした若き9名の兵士たちは再び広島市内に向かうことになる。
そして、翌8月7日早朝、義三たちは、人類として初めて爆心地に踏み入ることになった。

  地獄図と化した爆心地の有様は?
  義三たち一行が見たものは?

 原爆炸裂直後の世界が、今そこに広がっていた。

    「ヒロシマの九日間」 目次に沿ったストーリー
もくじ あらすじ

プロローグ

 平成17年の冬、父は被爆後初めて広島を訪れた。
60年前のこの街は、一瞬の閃光によってすべてが破壊され、人々は瞬きもできない間に溶かされてしまった。
しかし、今現在の広島には、それらの惨状を思い起こせる物は何一つ残っていなかった。
元安川 原爆ドーム 爆心直下の島病院
陸軍船舶兵
特別幹部候補生

 昭和19年、17歳の私(池田義三)は、志願して陸軍船舶兵特別幹部候補生隊に入隊した。
私は小豆島に配属され、毎日厳しい訓練に明け暮れていた。

陸軍士官学校受験
 私は、陸軍士官学校を受験することになり、兵舎で独り特訓に励むことになる。
そんなある日、中隊長から突然呼び出しがあり、捕虜になった時の心構えを詰問される。


江田島幸の浦基地
 昭和20年7月、江田島の第十教育隊に転属した。
江田島には、北に陸軍の教育隊が、南には海軍兵学校が、いずれも当時の日本国の重要使命を担う教育学校が隣接されていた。


マルレ
 私は、毎日同僚から離れてマルレによる特攻訓練を受けることになる。
一方、山ひとつを隔てた海軍兵学校では、特殊潜航艇による特攻訓練が連日続けられていた。
江田島 マルレ 海軍特殊潜航艇

運命の8時15分

 昭和20年8月6日早朝、私たちは軍需物資調達の命令を受けて、江田島から広島市内に向かい、宇品西二丁目の神社跡でドラム缶にもたれてトラックを待っていた。
 午前8時15分、一瞬の閃光が走り、私たちは5メートルほど吹っ飛ばされ、しばし失神していた。
空には異様な雲がむくむくと湧き出ていた。
幸いにも軽症ですんだ私たちは、命令を遂行するため、2台のトラックに分乗して広島市内に向かう。
被爆者の群れ
 トラックは数百メートルほど走行したあたりで被爆者の群れと遭遇し、ノロノロ運転を余儀なくされる。
はじめのうちは人間の姿であった被爆者たちだが、時間の経過とともに重傷者が増し、全身が焼け爛れ、とても人間とは思えぬ姿となっていた。
トラックは、助けを求める被爆者の群れに遮られて走行ができなくなり、やむなく重症の被爆者を乗せて宇品海岸に引き返し、海岸の倉庫沿いに被爆者を避難させ、私たちは江田島に帰隊した。

燃える広島市街


松重美人氏撮影

 江田島に帰隊した時には既に広島市街の救援命令が発令されていた。
このため私たちは再度広島市に向け出発し、午後7時頃に宇品海岸に上陸する。そして隊列を組み、徒歩で広島中心部に向かった。
途中、いたるところで哀れな姿の被爆者達がたむろしていたが、私たちはそれらの被爆者達を助けることもできず、千田町あたりで消火作業を行うことになる。
8月7日早朝、なんとか市街の消火を終えたが、私たちには広島市の中心部で救援と遺体処理にあたる命令が発せられ、徒歩でさらに北上することになる。


爆心地

林重男氏撮影

 私たちは、原爆ドームに程近い爆心地(紙屋町・八丁堀付近)に到着した。
そこは、ただ瓦礫の原が続く空虚の世界であった。ところどころには、未だ冷めやらぬ燃え殻が、かすかな煙を立ち昇らせていた。
私たちは早速遺体の捜索を開始したが、広大無辺な瓦礫の原には、亡骸はおろか、遺骨の欠片さえ発見できなかった。
しかし、瓦礫に埋もれた防火用水桶の中には・・・・
遺体の焼却
 爆心地での遺体捜索をあきらめた私たちは、広島市内を縦断する元安川に向かった。
河川を見渡した私たちは驚きの声をあげる。
そこには、全身が真っ赤に茹でられた被爆者の死体が、広い河川を埋め尽くすように折り重なっていたのである。
私たちは、それら哀れな遺体を焼却するために、一体一体を背中に担いで焼却場所まで運んだのだが、身の毛もよだつほどの恐怖から逃げ出したい気持ちでいっぱいであった。

彷徨う亡霊
 私たちは毎夜、遺体の焼却場所の近くで眠った。
付近は死体を焼却した匂いと死臭が漂い、いくら慣れても吐き気が止まらない。深夜、尿意をもよおした私は、輪になって眠る兵隊たちからソォーと離れて用便しようとしたが、すぐ目の前には世にも恐ろしい亡霊がゆらゆらと漂っていた。

真夏の惨状
 被爆から5日目、今日も相変わらず河川での遺体収容と焼却の作業が続けられていた。
遺体を担ぎ上げようとした時、遺体の傷口になにか白いものが動いていることに気付く。
なんとそれは、遺体の体内から湧き出てくる大量の蛆虫であった。

原子爆弾
 1945年8月6日午前3時頃、約4トンの原子爆弾を積んだ米軍のB29爆撃機エノラゲイは、2機の随伴機とともにグァム島の北方、マリアナ諸島にある小さなテニアン島を飛び立った。
8時15分、広島市の上空1万フィートから原子爆弾を投下する。

非国民
 家族を探す老婆が3名の不良青年に取り囲まれる。 そこに現れた3名の憲兵、それは小豆島で偶然にも知り合った高島憲兵であった。


憲兵
 高島憲兵との奇遇な縁。
それは小豆島で起こった偶然の出来事からであった。


懲罰
 高島憲兵は、不良少年3名に思いもかけない懲罰を与える。

帰隊命令
 8月13日夜、私たちは帰隊命令を受け、これでやっと地獄から開放されると抱き合って喜んだ。
8月14日早朝、私たちは隊列を組み、爆心地から宇品海岸に向かって徒歩で南下した。
途中、6日夜の消火作業で助け出した田原さんの奥様と再会する。
一緒に助けたご主人は不幸にも亡くなられ、ご遺体だけがその場に放置されていた。
私たちは、ご主人のご遺体を荼毘にふすため、焼却場所を探し回る。

広島の九日間
 帰隊する途中、御幸橋の袂でボロボロの服を着た少年に呼び止められる。
少年に引っ張られて瓦礫の中に入っていくと、そこには重症を負った少年の姉が横たわっていた。
姉の傷口を見れば、大量の蛆虫が湧き出ている。
生きた人間の傷口にも蛆虫は繁殖していたのであった。
私たちは姉の傷口を処置し、帰隊の途についた。
指折り数えてみれば九日間、「広島の九日間か・・・」思わずつぶやいた。

手紙
 被爆から60年。
思わぬ方から一通の手紙が届く。


エピローグ



原爆慰霊碑

 原爆資料館を初めて訪れた父は、ただ無表情に歩いていた。
展示されている写真や遺品の数々を見た父は?
そして今、原爆や戦争に対する父の想いは?



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